・労働懲罰説とは何か
・技術進歩と労働時間
・世の中の当たり前
ごきげんよう、ぺいぱです。
このブログの内容は動画でも解説しています。
以前に「みんなのFIRE辞典:これが増殖し続けるFIREの今だ!」という回をお送りしたことがありました。FIREのルーツを入り口に、増殖し続ける様々なFIREの形をぺいぱの独断と偏見で辞典としてまとめたものです。
この中で触れたのが「労働懲罰説」という考え方。これはその名の通り「労働は罰である」という考え方で、旧約聖書の創世記にあるアダムとイブのエピソードに基づいています。
創世記によれば、アダムとイブがエデンの園で禁じられた「善悪の知識の実」を食べたことが神に逆らった行為として罰せられ、その結果として神は彼らに対し苦役を課しました。具体的にアダムには「額に汗して食べ物を得なければならない」という生活を、イブには「出産の苦痛」を与えたとされています。
これにより労働は罰であり、人間が罪を償うためのものとして理解されるようになったわけです。この考え方は長い間、ヨーロッパ圏で根強く影響し、特に労働を苦痛や義務として捉える感覚のベースとなりました。また、産業革命期には工場労働が過酷だったため、労働は耐えるべきものというイメージがより強まった側面もあるようです。
「仕事は人がしたくないことをやることでお金を得られる行為」なんて評することもありますが、これも元を辿れば労働懲罰説からきているのかもしれません。
一方で、この説に対抗する考え方もあります。それが「勤労は美徳」というもの。日本でも「働くことは人間としての義務」という倫理観が重視され、労働が自己実現や社会貢献の一部とされる社会です。実際に会社員として勤務している方々の中には、働くことが自身の生きがいでもあり、アイデンティティの源泉であるという人も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。
ぼくも四半世紀会社員をやってきましたが、まさにそうでした。
・会社で取り組むプロジェクト
・会社でのポジション
・会社でのコミュニティ
そうしたものが自分を形成していたわけです。「会社人間」「モーレツサラリーマン」「24時間戦えますか」といった単語がかつて存在しましたが、まさにそれをぺいぱ自身も愚直に体現していたのでしょう。
とはいえ、こんな人は少数派。そして、そんなぼくでも会社に行きたくない日はあったし、嫌気がさすこともあったし、サボったこともあった。労働から逃れて自由な時間を欲したわけです。
さて、「労働は罰」から「労働は美徳」。この価値観の変容は一体いつどこでなぜ起きたのでしょうか。これこそ、FIREが人の魅力を惹きつけてやまない理由を読み解く鍵にもなりそうです。今回はそれをぺいぱ的に考察していこうと思います。
色々な考え方が存在すると思います。ぜひ皆さんもご自身ではどう考えるか、どう受け取っているかを明文化してみると面白いかと思います。今回はそのとっかかりになる話をまとめていきますので、ぜひ最後までお付き合いください!
・「労働は罰」から「労働が美徳」に変化した時期や理由
・技術の進化で人の労働時間はなぜ減らずに増え続けているのか
・価値を創造していくとはどういうことなのか
・世の中の当たり前はただの幻想
・人はどうやって生きていくべきなのか
「労働は罰」から「労働が美徳」に変化した時期や理由
冒頭でも触れたように、旧約聖書の「アダムとイブの楽園追放」に由来し、中世ヨーロッパでは長らく「労働=罰」と考えられたことから、貴族や聖職者は「働かない身分」として上位に立っていました。ところが、16世紀の宗教改革を境に価値観が大きく変わります。
ルターは「労働も神への奉仕である」と説き、カルヴァンは「勤勉や倹約を神への忠実の証」としました。これが後に“プロテスタント倫理”と呼ばれる考え方で、労働に神聖な意味を与えたわけです。つまり、“労働は罰”から“労働は美徳”へと、価値観が反転した瞬間となります。
この思想がやがて資本主義の精神的な土台の一つになります。18〜19世紀の産業革命では、蒸気機関や工場生産が広がり、都市には膨大な労働力が集まりました。経営者にとって勤勉で文句を言わない労働者は理想的存在。こうして「働くことは立派だ」「怠けるのは悪だ」という価値観が、宗教から経済へ、そして社会全体へと定着していきました。
20世紀になると、労働は単なる「生きるための手段」ではなく、“社会的アイデンティティ”に変わっていきます。つまり、どんな仕事をしているかがその人の価値を決める。この頃にはすでに「働かない=怠け者」という構図が定着していたわけです。
このように労働が罰から美徳に変わった背景には、宗教・産業・資本主義、この3つが複雑に絡み合っていたと考えることができます。大衆消費社会に移行した現代においては「よく働き、よく稼ぎ、よく使う」ことが模範的な生き方とされます。ここに“働かされる構造”を見てとることができます。
技術の進化で人の労働時間はなぜ減らずに増え続けているのか
近年、AIの進化を通じ人の仕事を代替していくことが期待されています。資産運用において株高の恩恵を受けている方は多くいらっしゃるかもしれませんが、それを牽引しているAIブームの根っこには「人の手による仕事の多くがAIに置き換わっていく」、こうした高い需要予測が念頭に置かれています。
ぼく自身もかつて管理職をしていて、たとえばプレスリリースの作成・配信、名刺管理などのツール導入を積極的に進めていきました。仕事の無駄をなくし、スタッフがよりアウトプットの品質を上げるところに特化して欲しいという思いからです。
こういう取り組みは組織単位だけでなく、会社単位でも行われているものです。社員へ供与されるPCや周辺機器などは最新機材が導入され、その投資は結果的に作業スピード向上に大きく貢献しています。しかし、結果として労働時間が減少しているかというと全然そうなっていない。そしてこれは何も最近のことに限りません。PCやプリンター、インターネットがない時代だって会社における労働は存在していたからです。確実に便利になっているはずなのに全然働き手は楽にならない。
これには2つの側面があるのではないかとぼくは思います。
・経営層が社員の勤務時間=生産性と捉えている
・世の中が求めるルールが厳格化され過ぎている
ぼくは管理職をしていた当時、よく社長から「お前の部署はスタッフの就業時間が減っている」というような指摘を繰り返し受けてきました。まぁ、経営者は数字で色々なものを判断するわけですから、こういう考え方に落ち着くのは仕方ないのかもしれませんが、働く時間とアウトプットの品質は必ずしも比例しません。冷静に考えればわかることですがそれが伝わらない。コロナ禍で普及したリモートワークが今では衰退しオフィス勤務に回帰している流れも、本質は同じだと思います。オフィスに長時間拘束することが、ビジネスで最大効果を生むという発想です。
また、後者については会社員をされている方なら実感あると思います。作業のための作業が膨大になっている。欧州のGDPR(EU一般データ保護規則)だとか、電子帳簿保存法、インボイス制度などの導入。それぞれ個別に見れば趣旨は理解できるけど、対応するためにオフィス内での業務量は爆発的な増加をします。宇宙ゴミ同士がぶつかってさらに数百の無数の宇宙ゴミに広がっていくかの如くです。
会議のための会議。資料のための資料。根回しのための根回し。これらは不可逆的。なぜなら一度始めた慣習を緩めることは人間にとって心理的不安に繋がるからです。つまり、ツールがどれだけ進化し効率化していっても、それを上回る速度で業務が複雑怪奇化していく。これが現代における労働の実態なのではないでしょうか。
価値を創造していくとはどういうことなのか
人が労働を通じて行なっていること。それは本質的には「価値の創造」です。実際にできているのかどうかについてはまた後述しますが、価値あるものを生み出すために人生という有限な時間を投じており、その対価として賃金をもらっているわけです。
では、価値を作っていくとはどういうことでしょうか。例えばある人が家を建てたとします。その家は5,000万円で別の人に売ることができました。するとどうなるか。5,000万円の価値がある家と、その購入代金である5,000万円というお金の両方が世の中に存在することになります。あら不思議、5,000万円分がまるまるこの地球上に増えたわけです。つまりこれが価値を生むということ。
人が何らかの活動を通じて価値を生み続けることができれば、たしかに世の中は身も心も豊かになるのかもしれません。価値を生んだ人はその満足感や達成感、価値を受け取った人もまた同様だから。しかし実感としてはこの現代、身も心も貧しくなっていることが多いのではないでしょうか。それはなぜか。人の労働を通じて世の中に価値を生むことができていないからだと考えられます。例えばこのようなことです。
・価値を作っているようで実は粗悪品だったり無価値だったという場合
マズイ料理、欠陥住宅、クソつまらないゲーム、価値がないけどあるように見せかけている金融商品なんていうのもそうでしょう。まったく視聴されない動画コンテンツも同様です。
・価値があるけども本来の価値よりかなり低い評価でやりとりされている場合
企業間の価格競争が行き過ぎて本来の価値を毀損した市場が形成されるということもありますし、新しい取り組み過ぎて実際の価値を人々が認識できていないなんて場合もあります。
顧客視点に一切立っておらず儲けだけを追求する。こんな企業をよく目にしませんか? 資本主義の成れの果てかもしれませんが、こういうケースが数多あるからこそ、人が労働で忙しい割には身も心も一切豊かになっていかない。働けど働けどただただ苦しい。先ほどの技術の進化があるにも関わらず業務が一向に楽にならないという件と合わせ、価値の創造に向き合えていない世の中であることが、現代社会の大きな課題なのかもしれません。
世の中の当たり前はただの幻想
「赤信号みんなで渡れば怖くない」なんていう言葉がかつて存在しました。悪いことでも他にやっている人がいれば気にならない。これを端的に示した表現です。
駐輪場にとまっている自転車の前カゴ。1つ空き缶が入れられるだけで翌日にはあっという間にごみの山になる、なんていうのも根本は同じ。人は多くの人がやっていることを問答無用で許容してしまうし、正解だと思い込んでしまいます。
昨今では、
・ゴールドを買うため貴金属店にシニアが長蛇の列をなしている。
・ミーム株が一時的に急騰したあと急落し個人投資家が阿鼻叫喚。
こんな話は記憶に新しいですね。また「社会人は大企業に勤務して結婚してローンで家買って定年まで働く」なんていうのも、高度経済成長期に固まった暗黙のルール、固定概念です。それが万人にとって正解とは限らないけど盲目的に同じ行動をとってしまうわけです。
ぼく自身もそうでした。コロナ禍で強制的におうち時間が生まれた2020年4月・5月の存在がなければ、今でもそうだったでしょう。この幻想の霧が晴れたからこそ、資産形成をすることを通じて突破口を見出していったわけです。
こうした世の中で当たり前とされていることが、実は全然当たり前じゃない、非常に不安定の上で成り立っている。そんなことはたくさんあります。例えば
「法定通貨の価値」
「民間保険での備え」
「1日3食が健康的」
「投資はギャンブル」
「正社員=安定」
「有名大学を出れば安泰」
などなど。
生きている上で、流れに身を任せていることって結構多いと思うんです。考えなくていい方が楽だから。楽な方に楽な方に寄せられていくのは人間のサガなのでしょう。だからこそ、こういった世の中の当たり前をゼロから見直していくことがすごく大事であり、その極みが「労働は美徳」なのではないでしょうか。
人はどうやって生きていくべきなのか
話を少しづつ冒頭に戻していきますが、人はやはり何らかの価値を生み出していく生き方をする必要があるのだとぼくは思います。でもそれが=会社勤めとなってしまうと飛躍しすぎる。
人生は壮大な暇つぶしと言われます。何もしない選択肢をとれるのであればそうする人もいるかもしれません。FIREの根底は悠々自適な生活にあるわけですが、でも本質はどうでしょう?
フルFIREを達成した人でも何らかの活動をしている人は多いです。手に入れた時間でこれまでやれなかったことをする。趣味だったり勉強だったり旅行だったり色々です。人が動けば何かが連鎖的に変化をします。趣味であればそこからコミュニティが生まれるかもしれない。勉強で得た知識で誰かの役に立てるかもしれない。旅行先で使ったお金は人の手を伝って誰かの経済を回すきっかけになるかもしれない。資産収入を得るために運用しているお金だって企業活動のベースになっていたりする。
つまり、どんな立場、どんな形であっても、何らか世の中に価値を生んでいくことをしていく。そして今の自分がそうなっているか否かを定期的に見つめ直す。人が生きるということは、そういうことなのかもしれません。
思い返せばぼく自身、今回のようなことを常に考えて生きてきたわけではありませんが、20年ほど勤務した前職を退職するきっかけを、こちらの回「ぺいぱが勤務先の退職決意に至るまでの思考を言語化してみた」で2024年6月に取り上げたことがありました。詳しくは当該回をご覧いただくとして、ざっくりこんなことを解説したわけです。
① 法整備で増える膨大な庶務業務
② 定量的にあらゆる予測を求める風土
③ 上司からも部下からも支援がない
④ 価値観が抜本的に合わない経営幹部
⑤ 会社の中では自己実現ができない
そして、締めとしてこんなことに触れていました。
時間は有限です。1日8時間労働だとしてそれを2024年の営業日248日と掛け合わせると1,984時間となります。もちろん残業も発生するでしょうから2,000時間を軽く超えていくことが想像できます。
その時間に見合ったアウトプットがあるのか。あらゆる面でぼくが社会人になった24年前と比べ、会社での労働生産性は大きく低下していると感じます。
ITツール整備による効率化を上回るペースで、アウトプットに必要な処理ごとが増えているからだと考えられます。これはあくまでぼくの感覚値ですが、研究テーマとしてはすごく面白そうですね。
では処理ごととは何か。大きく会社事情と社会事情に分かれるでしょう。
会社事情は根回し的なこと。社会事情は誰のためかよく分からないルールを遵守するための準備が多すぎること。仕事のための仕事。へたすれば仕事のための仕事のための仕事。そんなことばっかり。
こういうことにもううんざり。嫌気がさした。これがぼくなりの結論です。
これ、今回話をしてきた内容とも通じる部分があります。一言で置き換えれば「自分が会社の中でやっていることに生産性を感じられない」ということ。つまりは、有限な人生を使って労働をしているのに価値を生み出せていない、そういった実感がない、ということです。
もちろん組織戦で管理職を担う場合、自分自身が現場で手を動かすことはほとんどありません。部下を差配することでビジネス競争に勝ち抜いていくわけですから、どうしても間接関与になります。実際は価値を生んでいるのにその実感がないということもあるでしょう。でも、組織が大きくなればなるほど無駄は増えるし複雑にもなる。価値よりも無駄を生んでいることは多々あるのではないでしょうか。
世の中の当たり前に飲み込まれ、経営者の手のひらに乗っているだけでは価値を生み出していく生き方からは遠ざかってしまう、なんてことも起こり得ます。「価値創造」を理念に掲げる会社というのは多く存在しますが、そもそも人の労働は価値を生み出すためにするものですから、そんな至極当然のことを敢えて謳うような会社はそもそも怪しんだ方がいいかもしれません(笑)
そんな輪から抜け出さなければいけない。頭ではあまり理解できていないけど、本能的にそれを求めている。人間に備わったそうした最後のスイッチが今回のお題でもあるFIREという存在であり、だからこそそんな生き方が魅力的に映っているのではないでしょうか。単に会社での仕事を逃れたいから、という単純なことだけでは片付けられない人類のFIREへの憧れ。そんな風に感じる今日この頃です。
おしらせ
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さいごに
今回は「人はなぜFIREを目指すのか?」をテーマに話を進めてきましたがいかがだったでしょうか。
・「労働は罰」から「労働が美徳」に変化した時期や理由
・技術の進化で人の労働時間はなぜ減らずに増え続けているのか
・価値を創造していくとはどういうことなのか
・世の中の当たり前はただの幻想
・人はどうやって生きていくべきなのか
こんなことを軸に、順を追ってぺいぱなりの考察をしてきたわけですが、皆さんはどのようにお感じになられたでしょうか。端的に示せばこんな渦の中に我々はいるとも言えますね。
美徳という概念を持った労働
↓
暗黙の了解で行う労働
↓
一部の人だけが都合のいい労働
↓
山ほど存在する価値を生まない労働
↓
身も心も豊かになれない労働
「ライスワーク」と「ライフワーク」なんて言葉があります。
食べるためだけの労働、そして対極にある生きがいとしての労働。ここまで「価値を生まない労働」が増えているという話をしてきましたが、実際に労働時間は短くならないし、給料が大きく増えることもないし、結果的に余暇もないし、生活するだけでいっぱいいっぱい。新しいことを学ぶ気力も、趣味を充実させる体力もすっからかん。
かつて江戸幕府が、年貢を「キツすぎず緩すぎず」にすることで、財政破綻なくかつ一揆も起こさせずという絶妙なバランスで運営されていた話は有名です。これを踏まえると、まるで今の世の中の仕組みが一部の人の都合で、あえて大衆に何も考えさせないようにするため、無駄を増産して一向に前進しない仕組みを作っているようにも思える。だからこそ、こんな幻想を脱出していくのには相当な変化や覚悟が求められます。
この「やわらか中学校」で繰り返し述べてきてる通り、ぺいぱ自身はFIREを達成したからといって、すごく幸せだとか、達成感があるとか、勝ち組だとかを思ったことは全然ありません。むしろ第2の人生を突然迎えて何をしていけば良いのかわからず、路頭に迷っている状態です。
そして人生が充実してないと思っているのは、おそらく今回の話でいうところの価値の創造がまだまだやれていないからでしょう。YouTubeやブログでの情報発信も、自分がイメージするほど多く人に届いていないと考えていますし、それこそまさに自分が投じている時間に対して価値ではなく無駄を生み出している場合が多い。
自由時間を好きに使った結果がどうだったとしても「自己満足で良いではないか」という考え方もありますが、ぼくはやはり人々に価値を提供していきたい。だからこそ常に作り手側でいたい。なので誰からも求められていないのに、文章も書くし、マンガも描き続けるわけです。
会社員を長く続けていると、基本は与えられた役割を全うするスタイルになりがちです。これを5年、10年、20年と続けていくと、自ら価値を生み出していく側に回ることが難しくなる。これは感覚的にもお分かりいただけると思います。
現代は余暇ができたとしても、SNSだったり動画配信プラットフォームが充実しているので、受動的に生活を送る仕組みが整っています。従来はそれをテレビが担っていたわけですが、いまはネットもありますからより多層化している。つまり、過去よりも現代の方がそうした受け身の生き方から、自ら価値を生む方に回っていくことが難しくなっているとも言えます。
というわけで、今回の話はあくまで社会人を長らくやってきたぺいぱによるただの感想です。「人は本能的にFIREを求める」などと、哲学者みたいなことを堂々と言ってのけたわけですが(笑)、皆さんも人がFIREを魅力的に感じる理由、労働は罰なのか美徳なのかなど、いろいろなご意見、ご感想をお持ちかと思いますので、ぜひコメント欄にいただけると嬉しいです。
この「やわらか中学校」ではお金や仕事に関する話題を中心に、FIRE生活に突入したぺいぱの日常を赤裸々にお届けしています。ぜひチャンネル登録・いいね・コメントをよろしくお願いいたします!
また、YouTubeサブチャンネル「ぺいぱのひとりごと」は、ぺいぱが興味関心のある話題を取り上げて好き放題喋り倒すラジオのようなライブ配信番組となっていますので、こちらもぜひチェックしてみてください。
ということで、今回も最後までご覧いただきありがとうございました。
人生はノーコンティニュー!悔いのないようにやっていきましょう。
では、ごきげんよう。
君は価値を生み出すことができるか
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メインテーマをひとしきり喋り終わった後で、さらになんやかんやと喋っていくコーナーです。
ただいま絶賛無職で、価値を生み出すことができていないぺいぱ。2024年12月末での退職でしたので、もうじきそんな生活も丸1年を迎えます。会社員時代よりも慌ただしさという点では圧倒的に低下したにもかかわらず、時間経過としては人生で最速。そんな印象です。
ここ最近は触れていませんでしたが、FIREから10ヶ月経過した2025年10月末時点での資産状況を紹介していきます。メインだった労働収入を失い、かつ退職初年度ということで各種税金負担が重くのしかかる中、毎月収支は赤字を続けているわけですが、1つ個人的に大きなトピックがあったんですよね。それは、早期退職時である2024年12月末時点の資産額を月末締めベースで初めて超えたということです。そんなわけで24年12月末と25年10月末との比較を見ていきましょう。
不動産の評価額についてはAI査定サービス「ハウマ」「イエシル」での算出価格平均を取っていますので、あくまで目安としてご覧ください。負債欄にある「カード払い」というのは確定しているクレジットカード利用額を反映しています。
■2024年12月31日時点の純資産
<資産>
オルカン:3,738万円
暗号資産:1,518万円
不動産: 3,916万円
法定通貨:1,027万円
—————————
小計:1億199万円
<負債>
カード払い:▲16万円
—————————
小計:▲16万円
—————————
合計:1億183万円
… … …
■2025年10月31日時点の純資産
<資産>
オルカン:4,342万円(+16.16%)
暗号資産:1,767万円(+16.40%)
不動産: 3,942万円(+0.66%)
法定通貨:185万円(▲81.99%)
—————————
小計:1億236万円(+0.36%)
<負債>
カード払い:▲27万円
—————————
小計:▲27万円
—————————
合計:1億209万円(+0.26%)
※数字は四捨五入
※カッコ内は前年末対比
このように、わずか26万円ではありますが前年末比で上回ることができました。運用中の資産が大部分を占めますから、たった一瞬を切り取った数字にどれだけの意味があるのかということはもちろん承知していますが、それでもやはりFIRE初年度をどう乗り切れるかは個人的にも大きな注目点なので感慨深いです。
この10ヶ月間での比較はまさにその縮図だなと感じていまして、会社員最後のボーナス支給に加え、住宅ローン完済のためのオルカン一部解約による余剰資金を加えた1,027万円。それなりに手厚かったこの現金が、わずか10ヶ月で185万円に。しかもこれ、途中で360万円追加でオルカン現金化しての結果です。
引越しをして生活をスリム化する過程の一時支出なども嵩みましたが、それだけ1年目の防衛戦が激しかったことを物語ります。株高・円安という相場環境に恵まれたことは大きいわけですが、狙ってやっているわけでもないですから完全に運が良かったと言えます。
今年はここまで800万円近くの支出があったぼくが昨年末比で横ばいの状況。つまり今年は個人投資家の多くが非常に実りある10ヶ月間を送られたのではないでしょうか。本編で少し触れたように中にはミーム株で阿鼻叫喚するような話題も目にしてきましたが、資産運用は刺激や夢を追い求めるものではなく、手堅く退屈なぐらいがちょうどいい、ということを示しているような気もします。
さぁ、果たして残り2ヶ月でどんな着地を迎えることができるのでしょうか。仮に相場が軟調で終わったとしても、よっぽどのことがない限り通年では「まぁ関税ショックとか色々あったけど底堅かったよね」という感じにはなりそうですけどね。
では、ごきげんよう。

