おはようございます、ペーパー先生です。
先生は学生時代、好きな教科がありました。
それは「歴史」です。
高校の時に、クラスで超絶頭の良い同級生がいまして、どの教科でも毎回クラスで1番でした。
こんな出木杉くんみたいな人が、世の中本当にいるんです。
凡人一筋18年のペーパー少年は思いました。
「何とか一矢報いたい」
すべての教科を押し並べて頑張るというのでは勝ち目がないので、「歴史」一本に学習時間を徹底的に絞り込んで戦う作戦に出ました。
結果、ペーパー少年は「歴史」で1度だけクラス2番。
勝てませんでした…。
こうしてペーパー少年の夢は、儚く散っていきました。
もちろん、他の教科はボロボロだったことは言うまでもありません。
特に英語!
凡人が天才と同じ土俵に立とうとすると、メリットよりもデメリットの方が多い、ということをまさに証明したわけです。
今なら分かります。スレッガー中尉のあの時の気持ちが。
自分の目で見たものしか信じない
さて、どーでもいい前置きが長くなりましたが、今回はそんな「歴史」について思うことを紹介します。
よく「歴史は勝者の歴史」ということが言われます。
後世に残る記録は、勝者の都合の良いように書き換えられるから、ということがその理由です。
そもそも人の記憶なんて曖昧ですから、時間や世代を超えていけば、事実とは大きく変わっていきます。
記録されているものが書物であろうが、映像であろうが、人の手が入っていけば同じことです。
ですので「歴史」が脚色されているというのは、実際そうなんでしょう。
先生は自分の目で見たものしか信じません。
ですが、組織を動かしていく場合には、求められる「判断」は数も多いしスピードも重要ですから、久利生公平のように全てを直接調べていくわけにはいきません。
一方で、正しい判断をするためには正確な情報が必要です。
そのため先生は、誤った判断が絶対に行えないシチュエーションで、かつ上がってくる情報に不安がある場合に限り、自分で事実確認に動くことが多いです。
ザ・フィクション
結局、何が言いたいのかというと、フィクションとノンフィクションは紙一重なのではということです。
自分の目で見たことのないものは、事実かどうか分かりません。
「歴史」に限らず、我々が日々の報道で目にしている記事や映像だって、自分が現場で見たもの以外は、人の手を経由した断片的な情報でしかないため、真実の全体像は分からないからです。
昨今、問題となっているフェイクニュースの問題も、根底にあるものは同じです。
そうなってくると、「関ヶ原の戦い」も「一年戦争」も、受け取る先生からすると同じフィクションです。
もし、戦争から何かを学んだり研究したりするのであれば、開戦に至る経緯や、それぞれの正義などを忠実に記した文献が山ほど存在する「一年戦争」の方が、テーマとしては優れているとも言えます。
今日は「歴史」について、先生の考え方を紹介をしました。
妄想癖、ここに極まる。
それでは、ごきげんよう。
情報を足で稼ぐことも大事。